瀬戸内海を歩いて渡る 〜しまなみ海道65kmの憂鬱〜

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しまなみ海道 奥多摩じゃない山など

伯方島をかすめるように歩いて大三島橋を渡ります

正直なところ伯方島の記憶はほとんどありません。「伯方の塩」のイメージが強すぎるからというわけではなく、島内を歩いたは西部の4kmほどと短くてすぐに大三島橋にぐるぐると登ったからだと思います。ただ「伯方の塩ラーメン」の幟が立っていたことはよく覚えています。やっぱり塩か。

大三島橋は本州四国連絡高速道路株式会社のWEBサイトに「1975年に本州四国連絡橋の中で最初の長大橋として着工し、1979年に開通しました。アーチ支間297mは完成当時日本最長でした」とあります。また、ライトグレーの塗色、塗装や舗装の材料、施工方法などがその後に次々と建造された本州四国連絡橋のパイロット的な役割を果たしたそう。

伯方島

大三島橋から伯方島を振り返って。

大三島大橋

大三島橋(328m)を渡ります。地味な姿ですが後続の本四連絡橋の水先人になった橋です。海だけに。

大三島橋を渡ると大三島です。

大三島もかすめ歩いて四国と本州に架かる多々羅大橋へ

大三島はしまなみ海道が通る島のなかでいちばん大きいんですが、東の海岸沿いを5kmちょっと歩いただけで多々羅大橋に取付きました。

多々羅大橋

多々羅大橋が見えてきました。大三島から生口(いくち)島に架かる橋です。

多々羅大橋は斜張橋という形式です。見た目は吊り橋そっくりです。吊り橋は塔と塔の間に渡したメインケーブルから垂らしたケーブルで橋桁を吊るけれど、斜張橋は塔から張られたケーブルでちょくせつ橋桁を吊るして支えます。吊り橋は長大な橋をつくりやすいけれども馬島にあったような巨大なアンカレイジが必要で建造費が高くなりがち、斜張橋は長大な橋はつくりづらいけれども小中型の橋を低コストで建造できる、というのがそれぞれの長所と短所だそう。
多々羅大橋は当初は吊り橋で計画されていたけれど、斜張橋が採用されました。先に開通した生口橋で培った斜張橋の長大化の技術をいかすことで低コストかつ景観を壊しがちな
アンカレイジのいらない橋が完成しました。多々羅大橋の全長は1480m。1999年の開通当初は世界最長の斜張橋だったらしい。

カンカン照りにもほどがあります。9月初旬とはいえまだまだ夏です。めちゃくちゃ暑いし紫外線の強さもハンパないはずです。首筋と二の腕の裏がチリチリチリチリします。ミニオンズを頭に載せ、手ぬぐいを首に巻いても突き刺してくるような熱を感じます。奥多摩なら日陰がないなんていうことはまずないんですが、海岸沿いではまったく日陰がない道がずーっと続いたりします。いま思えばザックに入れていた折り畳み傘を引っ張り出して日傘にすればよかったんですがまったく気が回りませんでした。帰宅後、数日して二の腕の裏の皮がボロボロむけ始めました。日をより受けていた右腕のほうがやはりひどく、ボロボロのボロボロ。この歳になって皮がむけるなんて思いもしませんでした。新しい皮が最後の1枚、なんてことはないでしょうね。

「サイクリストの聖地碑」がある(らしい)「道の駅 多々羅しまなみ公園」の自動販売機前のベンチで大休止です。きょう4本目か5本目のペットボトルを買いました。すべて水です。味があると喉を通りづらい気がして水以外は飲む気がしません。フードコートがあって注文された食べ物が出来上がると番号がアナウンスされます。次から次へとアナウンスされます。日陰だし海からの風が心地いいんですが、時間に余裕があるわけではありません。多々羅大橋のぐるぐるに取付くために腰を上げます。

サイクリストの聖地碑

ザックを背負いミニオンズと麻柄を身にまとった汗だくの爺は「サイクリストの聖地碑」周辺の風紀を乱すに違いありません。碑はパスしてぐるぐる登坂に取付きます。

多々羅大橋

多々羅大橋を渡ります。正面は生口島の観音山。多々羅大橋に斜張橋が採用されたことで山の大規模な地形改変が避けられたそう。

多々羅大橋から

多々羅大橋から左(北)方向。本州はすぐそこです。右奥に今治造船広島工場が見えています。

四国から本州へ

多々羅大橋の真ん中で四国から本州へまたぎ越します。

多々羅大橋の真ん中で四国から本州へまたぎ越しました。
多々羅大橋を渡り終えれば全行程のほぼ半分が終了です。本州に達したとはいえ、まだまだ先は長いです。

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