「位置」の大親分「日本経緯度原点」に会って三角点の誤解を3つ解く【後編】

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鷹ノ巣山の二等三角点 奥多摩じゃない山など
鷹ノ巣山の二等三角点

【前編】で東京都港区の「日本経緯度原点」と茨城県つくば市の「つくば超長基線電波干渉計観測点」を訪ねましたがいよいよ三角点の話です。いよいよ、というほどのこともないかな。まっ、いいか。

そもそも三角点って何よ

そんなこんなの「地図と測量の科学館」に設置された「つくば超長基線電波干渉計観測点」の訪問を終え、「位置」の基礎になった現場2点をこの目で見て、「ははーん、そーなのか」くらいは理解したつもりです。けれども『奥多摩トラバース』の野望は暴れ馬です。誰にもとめられません。次なる標的は山中で見かける三角点です。
というか、そもそも、山頂で見かける三角点がなんであるかがわかれば尾根歩き、山歩きがひょっとしていままでよりちょっとちょっぴりわずかながら少しでもそこそこなんとなく面白くなるんじゃないか、というのがこの記事の主眼でした。主眼を忘れるくらいの前置きになってしまいました。

三角点の3点
遅ればせながら、三角点の本質にビシッと切り込んでいきます。
①等級に優劣はありません。
雲取山にある奥多摩山域で唯一の一等三角点と、ズマド山などの三等三角点のその等級に優劣はありません。
②三角点は山頂の場所を示すものではありません。
確かに鷹ノ巣山(後に詳述)でもイソツネ山でも三頭山でも、三角点を思い出すと山頂には立っていません。山名は忘れましたが、尾根の途中に標石が埋設されていて探すのにめちゃくちゃ苦労した記憶もあります。
③高さ(標高)は副産物です。
三角点は位置(緯度、軽度)を示すもので高さ(標高)は副産物です。
以上の3点について周知のことかもしれませんが、自分なりに調べて理解した道筋をなぞってあーだこーだと以下に述べます。長いです。

『劒岳・点の記』
三角点という言葉を世間に広めたのは小説『劒岳・点の記』(新田次郎 文藝春秋 1977 後に発刊された文庫版のタイトルは『劒岳〈点の記〉』) だと思うんですが違うかな?
参謀本部陸地測量部の柴崎芳太郎測量官たちが剱岳に四等三角点を設置したのは1907(明治40)年のこと。5万分の1の日本地図を完成させるために空白地帯を埋める測量でした。小説では剱岳の「初」登頂をめぐって、陸地測量部と設立ほやほやの山岳会(後の日本山岳会)の静かなデッドヒートや立山信仰との軋轢が描かれ、山が新しい時代を迎えつつあったことがヒシヒシと感じられます。
柴崎測量官たちが設置した三角点はスギ材だったようです。小説では「長さ十尺、末口一寸五分」とあるから長さ3m強、根元の直径約6cmの丸太です。4本の引き綱で4人で雪渓を運び上げ、岩崖の難所では長次郎という屈強な案内人がひとりで担ぎ上げたと書かれています。
三等三角点なら標石を設置しなくてはなりません。丸太1本でもそうとう大変なのに、標石を設置するとなると100kg前後の荷です。剱岳の山頂に標石を運び上げることはあまりに無茶な話だったのでしょう。

剱岳に三等三角点の標石が設置されたのは柴崎測量官が四等三角点を設置してから101年後の2008(平成20)年8月のことです。重さ63kg、高さ80cmの標石をヘリコプターで山頂まで運搬し、埋設されました。『剱岳に三角点を!』(山田明 桂書房)という書籍にこのあたりの経緯が詳しく書かれています。

点の記
『劒岳・点の記』の「点の記」は三角点の設置に三等三角点、二等三角点、一等三角点などの設置に関するそこそこ詳細な記録です。食料品や飲料水の入手方法、三角点までの道順、オススメの旅館なんかも記載してあったりしてなかなか興味深いものです。近年に書かれたり書き直されたりした「点の記」は簡素ですが、かつての「点の記」は三角点設置に携わった者たちの息づかいが聞こえてきます。柴崎測量官が剱岳に設置したのは四等三角点だったため「点の記」は残念ながら残されていません。

雲取山 点の記

東京都の最高峰、雲取山の「一等三角点の記」。一等三角点が埋設されたのは1883(明治16)年です。その後に何度か修繕(改埋)されていることが記されています。1998(平成10)年の一等三角点の整備を機に(おそらく)それまでの点の記が改定されてスッキリした書式になっています。[国土地理院]

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三角測量と三角網と一等三角点
地形図で三角点は三角形の真ん中にポチリと点が描かれています。三角に点で三角点。点は場所を示していますが、三角は三角測量という測量方法が由来です。三角形は山と結びつきやすいイメージなんですが、ちょくせつ山とは関係ありません。
三角測量は基本にする線(基線)の両端、A点とB点から測定したいC点への角度をそれぞれ測定してそのC点の位置を特定する測量方法です。C点から基線をまたいで見通しが効くポイントに設定したD点の位置を同様にビシッと特定し、今度はCからDを底辺にした三角形の頂点EとFを特定、という作業をどんどんつづけていきます。この三角点の頂点に設置されたのが三角点です。最終的には落石防護ネットみたいな三角形の網(三角網)で日本全土を覆うことで、ようやく地図がつくられます。
三角網で日本を覆うという壮大なプロジェクトが始動したのはいつか、は難問ですが、日本の三角測量の基準になった基線の第1号、相模野基線が設定された1882(明治15)年でいいんじゃないでしょうか。北端の神奈川県高座郡下溝村(現・相模原市南区麻溝台4丁目)と、南端の高座郡座間入谷村(現・座間市ひばりが丘1丁目)の距離がビシッと測定されて相模野基線が三角形の底辺になり、底辺の両側にテキトーというか適切に設置した2つの三角点の相対的な位置を三角測量で確定。次は2つの三角点を底辺にして、と、そんなこんなの三角測量を続け、丹沢山(神奈川県相模原市、山北町、清川村の境界)と鹿野山(千葉県君津市)に設置した三角点の相対位置を求め、丹沢山と鹿野山を結ぶラインを底辺にして日本経緯度原点(当時)の相対位置を三角測量で測定。日本経緯度原点の位置(経度、緯度)はすでに規定されているので丹沢山と鹿野山の三角点の絶対位置(経度、緯度)が決まるというわけです。
日本経緯度原点、丹沢山、鹿野山を結ぶ大きな三角形の各辺を底辺にして大きな三角形を三角測量でどんどん増殖させて日本を覆ったのが一等三角網、三角網の頂点それぞれが一等三角点です。この一等三角点(本点)間の平均距離は45km、本点を補完する補点が平均25kmで設置されていて、現在は本点と補点を合わせて一等三角点と呼ばれています。一等三角点は全国に973点設置されています。
先に書いた通り、三角点記号の三角はちょくせつ山と関係はないんですが、三角点は周りを見通せる場所でなければならないので必然的に位置の高い山の上に設置されることが多くなります。けれども必ずしも山頂に設置されるというわけではありあません。

全国を一等三角網で覆い終えたのは1913(大正2)年のことでした。

相模野基線の測量風景

1910(明治43)年、長さ4mのヒルガード式基線尺というモノサシを3本つなぎにして実施された相模野基線の測量風景。他の3つの様式の基線尺とともにどれが正確に計測できるのかを試験したときのもの。気温の変化で鋼鉄製の基線尺が伸縮しないように小屋掛けを移動しながら測量したそう。[国土地理院 第48回国⼟地理院報告会より]

ヒルガード式基線尺

ヒルガード式基線尺。「本基線尺ハ明治十年(1877)米國海岸測量局技師ヒルガード氏ノ考案ニ依テ製造セラシタルモノニシテ長サ4m,直径9mノ鐵製圓棹トス而シテ之ノ幅7.6cm 高サ15.2cm 長サ4m 弱ノ木棹中ニ装置シテ發條ニ依リテ支持セラル,基線尺の温度ヲ測定スルニハ測棹ニ接シテ木棹中ニ挿入セル一個ノ寒暖計以テス,又傾斜ヲ測定スル爲メ木棹ノ一側ニ水準器ヲ附ス」。図、説明ともに『測地学委員会報告 第2巻 』(測地学委員会編 大正5-15)より引用。[国立国会図書館デジタルコレクション]

相模野基線

相模野基線を中心にした一等三角網の拡大図。ほぼ中央、左上から右下に引かれた短い2重線が相模野基線。白丸は一等三角点で、黒丸は一等三角補点。左上に雲取山が記載されています。相模野基線1本で全国を網羅するには誤差が出すぎるので、全国で15本の基線が設定されました。図は『測量学精義 第1編(三角測量)』(関信雄 養賢堂 昭和8)8ページより引用。[国立国会図書館デジタルコレクション]

明治30年代の一等三角鎖及網一覧図

『明治30年代の一等三角鎖及網一覧図』[国土地理院]

日本一等三角網

1939(昭和14)年発行の『測地便覧 昭和14年度』(陸地測量部三角科編 陸地測量部)の折込地図より「日本一等三角網」。北方四島、樺太島、台湾島も三角網に覆われています。[国立国会図書館デジタルコレクション]

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