今回は龍のごとく「海沢(うなざわ)の四滝」をさかのぼり御嶽神社で初詣という、2024年の正月にふさわしい尾根歩きを企てました。歩く尾根は鍋割山西尾根(登)と琴沢二俣中間尾根(下)。どちらもテキトーな名付けです。
鍋割山西尾根は鍋割山をてっぺんにして西に下り、840mの標高点の先の谷にガッツンと没しています。琴沢二俣中間尾根は御岳山の東から北東へ琴沢という沢の二俣分岐まで下っています。
スタートは白丸駅。まずは数馬の切通しを見学して今年の見通しをよくするという、なかなかイイ感じの歩きだしです。
鍋割山西尾根、琴沢二俣中間尾根
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■コース | [START]JR青梅線白丸駅→数馬の切通し→数馬隧道→海沢大橋→林道海沢線→(1時間50分)海沢園地→三ツ釜の滝→ネジレの滝→大滝→(1時間20分)不動の滝→(15分)鍋割山西尾根取付→鍋割山西尾根→(1時間40分)鍋割山→(20分)奥の院→御岳山→(50分)琴沢二俣中間尾根下降点→琴沢二俣中間尾根→(40分)琴沢二俣分岐→林道琴沢線→(15分)琴沢橋→(25分)[GOAL]JR青梅線御嶽駅→JR青梅線沢井駅 (7時間35分) |
■歩いた日 | 2024年1月6日(土) |
※赤い線が歩いた軌跡です。ただ、正確無比なものではありません。あ〜、そ〜、このあたりを歩いたんだ、程度の参考にしてください。
■[START]JR青梅線白丸駅→数馬の切通し→数馬隧道→海沢大橋→林道海沢線→(1時間50分)海沢園地→三ツ釜の滝→ネジレの滝→大滝→(1時間20分)不動の滝
海沢の滝は4つから3つに減らされています。いまや無き者として扱われているのは最上流にある不動の滝。3つめの大滝を巻いてのアプローチはキツくてデンジャラス。かつては探勝路のポイントだったらしいんですが、一昔前のハイカーは無茶する人が多かったのかな。
明けまして尾根でとうございます。
白丸駅です。数馬の切通しに向かいます。改札を出てすぐの踏切を渡り、右の坂道を登っていきます。
白丸駅です。数馬の切通しに向かいます。改札を出てすぐの踏切を渡り、右の坂道を登っていきます。
とんがった天地山(てんちさん)が朝日に照らされています。
「この道であっているのかな」と思いながら歩いていると道標が立っていました。バッチグーです。
ゴンザス尾根がどーんと見えました。
村娘が鼻緒の切れた下駄を手に途方に暮れていそうな場所です。
切通しの手前の石段を登ってみました。大天狗神社が建っていました。覆いかぶさる巨岩の向こうに多摩川上流方面が見えました。
数馬の切通しです。岩盤の上で火を焚き水をかけて脆くなったところをツルハシや石ノミで切り開いた、ということが奥多摩町教育委員会の案内板に書かれていました。工事が始まったのは元禄の頃で、改修を経て、大天狗神社の巨岩のさらに上を山越えしなくてはならなったのがめちゃくちゃ楽になったそう。せっかくなので古人の偉業を偲びつつ行って戻って行きました。
行った先は行き止まり。この路面も壁面も人力で砕き削ったのでしょう。もちろん、かつてはこの先にも道があったはずですが、
いまは旧新の青梅街道の合流点の上でぶつっと途切れています。
切通しをもう一度通り、引き返す途中の小尾根についた道を下ってみると旧青梅街道に降りられました。
数馬隧道です。大正12年(1923)、関東大震災の年に完成。新青梅街道の白丸トンネルが開通する昭和48年(1973)まで人や荷車や馬車や自動車が行き交いました。って見てはないですが。
数馬隧道をくぐるとすぐに新青梅街道に合流。あの海沢大橋を渡ります。ところでこんな山奥でなんで海沢という地名なんでしょう。国土地理院の「電子国土Web」で「海沢」を検索すると「北海沢」(北海道上川町)と「大字来海沢」(新潟県糸魚川市)のほか6件は奥多摩のこの地域。「北海沢」は「ほっかいさわ」、「来海沢」は「くるみさわ」と読むので「海沢(うなざわ)」は日本で唯一なのかもしれません。
どうして「海沢(うなざわ)」かの一説が『奥多摩町誌 歴史編』(奥多摩町誌編纂委員会 奥多摩町 1985 923-924ページ)に記載されていました。ちょっと長いけれど面白いので以下に引用します。「向雲寺前の盆地は沼湖跡である。もと碧水をたたえた沼湖であったが、いつのころか西面壁をなしていた岩山が崩壊した。いまこの決壊した旧所を「さけど(裂所)」と呼び、湖底地の所を「ザーナ(蛇穴 じゃあな)」と呼んでいる。海沢の地名はここから起こったといわれる。伝説によればこの池底に居た大蛇は決潰跡から出て向雲寺裏山に盤居して化石したという。見ればこの岩山には蛇腹の模様がある」。
どうして「海沢(うなざわ)」かの一説が『奥多摩町誌 歴史編』(奥多摩町誌編纂委員会 奥多摩町 1985 923-924ページ)に記載されていました。ちょっと長いけれど面白いので以下に引用します。「向雲寺前の盆地は沼湖跡である。もと碧水をたたえた沼湖であったが、いつのころか西面壁をなしていた岩山が崩壊した。いまこの決壊した旧所を「さけど(裂所)」と呼び、湖底地の所を「ザーナ(蛇穴 じゃあな)」と呼んでいる。海沢の地名はここから起こったといわれる。伝説によればこの池底に居た大蛇は決潰跡から出て向雲寺裏山に盤居して化石したという。見ればこの岩山には蛇腹の模様がある」。
その向雲寺が写真中央に小さく白くちょこっと見えています。蛇といえば龍。今年はいい年になりそうです。無理があるんじゃないの? と思うのは早計。ふふふ、向雲寺の山号は龍岩山っていうんだよね。
「海沢の三滝」の道標。第4の滝をなかったことにしようとする見えない大きな圧力が感じられます。
アメリカキャンプ村を海沢谷の対岸に見ながら通過します。位置からみてここはおそらく日本初の女性専用のキャンプ場の跡地だと思います。切り替え画像は『奥多摩・大菩薩・相模湖 ブルー・ガイドブックス 第5』(梶玲樹 横山厚夫 実業之日本社 1961 45ページ)に掲載された「海沢女子キャンプ場」。
観音橋を渡り、海沢隧道をくぐり、
せみのはし(瀬見の橋?)を渡ると林道海沢線の起点です。これまで歩いてきた道はなんだったのでしょう。謎。
道すがら。
道すがら。対岸に谷の風景が描かれた大きなキャンパスが脚立に立てかけられていました。絵具類らしきものはビニール袋がかぶせられていましたがキャンパスはむき出し。うーむ。この光景全体が作品なのでしょうか。
喉に詰まった感じ。
大きな滝が見えました。
海沢園地に到着。左からモノレールの駅、トイレ(きれいでした)、案内板、四阿。案内板の前で防寒着を脱ぎ、杖と入れ替えにザックにしまいました。
第4の滝を隠し忘れた道標を通過し、
木橋を渡ります。
すぐに三ツ釜の滝(落差12.5m)です。スコーンと開けっぴろげな雰囲気です。
滝に沿った階段を登ります。2つめ(だったかな)の釜とワサビ田。
右の岩に通路があります。
ネジレの滝(上段6m、下段3m)。ねじれています。ちょっと陰鬱です。
大滝へ向かいます。
急登が続きます。
道がはっきりしないところもあり、グーッと下っていくと
大滝の音と姿です。
大滝(20m)に到着。ザックを降ろします。ペットボトルに詰めてきたほうじ茶を飲みながら岩の蛇腹模様を眺めたり、魚を探したり、ネジレの滝の岩で滑って打った尻の肉と骨をさすったり、行程表を見て予定より遅れていることに「まっ、いつものことだし」と思ったり、チェーンスパイクを装着したり、体が冷えきる前にザックを背負いました。
第4の滝、不動の滝へのアプローチは大滝の右岸を巻くらしい。大岩の向こう側の
ガリ(ここでは雨水で侵食された溝のこと。ショウガではありません。ガリー、雨裂とも)を這い登るのもアプローチのひとつらしい。岩肌が見えているところがあります。滑りそうです。今度は額を打ってしまいそうなので左の小尾根に取付くことにしました。淡いけれど芯のある細い踏み跡(おそらくかつての海沢探勝路)をちょっとたどり、尾根に向かって
登ってきて
小尾根に乗りました。めちゃくちゃ急登です。
尾根を登り詰めると不動の滝から離れてしまいそうなので
尾根から右にはずれていく怪しげな踏み跡をたどってみることにしました。
なんと、ロープが出現。けれどもずっと導いてくれるわけではなく、踏み跡もあやふやになり、
なんとかしのいだここのトラバース(山腹水平移動)なんかは落ちれば一巻の終わりどころか『日本歴史地名大系』(平凡社)全50巻51冊の終わりです。
不動の滝(10m)が見えてきました!
小尾根から下っているさらに小さい尾根をおそるおそる降りてきました。思わず修行したくなるような滝です。ウソです。怖いです。
なんとか不動の滝についたんですがこれからが本番。見上げると鍋割山西尾根の840m標高点がとんがっていました。
海沢の4つの滝の短いまとめです。
© okutamaonearuki